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組織の人材育成に関する新たな枠組み

2008-03-25

現在、組織行動論において組織と個人の関係を規定する最も一般的な概念は組織コミットメントである。組織コミットメントの概念は、これまで様々な定義がなされてきたが、現在は研究分野の成熟化に伴い、情緒的コミットメントと功利的コミットメントの2つの概念に集約される。情緒的コミットメントとは、愛着や価値観の同一化といった組織に対する感情的・情緒的な関係を示すコミットメントであり、功利的コミットメントとは、「見合った報酬が得られる」などの組織との物質的、合理的な関係を示すコミットメントである。

(組織コミットメントに関する研究は日本でも行われた。特に、日本的経営の強みは組織と個人の関係の深さにあると考えられていたため、欧米での研究結果も積極的に日本で検討された。しかし、組織コミットメントだけでは日本的経営における組織と個人の関係を十分に認識できず、日本人の忠誠心の高さを表現するためには、「社会的規範を考慮したうえでの組織との関係を示す『規範的コミットメント』を考慮する」など、概念に何らかの拡張が必要である。)

近年、企業・市場の国際化が進み、日本では十分な能力・資質を兼ね備えた経営者の不足が認識されるようになっている。特に、事業転換や組織変革など長期的な観点から見た経営戦略とその重責を担う人材を必要とする企業が増えてきた。しかし、既存の組織コミットメントの概念では個人が組織のために行動することは認められるものの、その行動は場当たり的なものであって、中長期的な視野で捉えた上での行動は促すことが出来ない。また、組織コミットメントはその理論が発生した過程から、ある組織に所属し続けるという行動に結びつく心理状態を表現する概念に念頭が置かれている。その結果、組織への愛着は高まり、離職率は低下するが、コア人材が育成されず、組織変革の問題にいたってはそれを阻止しようとするマイナス要因にすらなり得る。

そこで、組織側は個人が持つ「組織を背負う意識」について認識する必要がある。「組織を背負う意識」とは、組織の将来を見据え、組織に忠実に従うのではなく、組織に対して積極的に行動する意識である。

組織を背負う意識と組織コミットメントは異なる次元に存在し、組織コミットメントが高まれば組織を背負う意識も高まるというわけではない。そのため、組織はコミットメントの強い人材の育成さえすればいいというのではなく、組織を背負う意識を持った人材も育成していかなければならない。

しかし、組織を背負う意識と組織コミットメントは互いに矛盾する存在でもない。つまり、組織を背負う意識を持ちながらも強い組織コミットメントを持った人材を育成することが十分に可能なのである。そして、このような人材を育成するために、組織は個人に対して自律的なキャリアを促しながらも、組織内でのキャリアの見通しあるいは、組織の中でその人が成長できる余地を示す必要がある。


参考文献:国民経済雑誌第196巻第3号

Posted by keieigaku at 09:53:05 | PermalinkComments(0)TrackBack(0)

中国(国外)への技術移転

2008-03-20


中国への技術移転を成功させるためには、単純に日本の生産システムを中国に移転するだけでなく、中国側の学習意欲と長期的な技術蓄積という継続的な努力の積み重ねが必要であり、日本企業側が中国の事情にバランスよく「適用」・「適応」することで日本的経営・生産システムは移転可能となる。

そしてこの「適用」・「適応」の程度は産業や業種によって異なる。製品・技術特性のレベルが高く、熟練工の育成が必要な場合は日本的経営の「適用」が必要となり、逆に、単純作業の求められる工場では現地に「適応」する必要がある。

日本的経営が「適用」される工場では、人材の新卒採用、「能力主義」・「成果主義」・「勤怠重視」による昇進評価基準、作業員を級分けすることによる職能資格の仕組みの導入、など日本における経営管理にきわめて近い方法を採用している。また、日本的経営システムにはそれ自体が日本的であることとともに、高コンテクスト、属人的要素が強く関わっているので日本人駐在員が多数派遣される。

一方で、現地経営が「適応」される工場では、熟練技術が要求されないので、出稼ぎ労働者が主となる契約社員を採用し、技術に関してもOJTで身につける。賃金に関しても最低賃金に近い水準に押しとどめている。

この「適用」と「適応」の使い分けによって日本企業は今のところ上手く中国に技術移転を行っている。しかし、この方法はあまりにも日本基準で考えすぎではないだろうか?確かに技術面では日本が高度なものを持っている。しかし、経営管理においては中国側が必ずしも劣っているとは限らず、「適用」と「適応」とはまた別の次元で捉えることが可能なものがあるのではないだろうか?

日本的経営の特徴である「終身雇用」や「年功序列」などが言語化され、認識されるようになったのはつい最近である。しかし、それらの仕組みは概念としては存在しないながらもはるか昔から日本産業に根付いているものであった。

中国にも独自の文化があり、歴史がある。そしてそこには「中国的経営」なるものがあっても不思議ではない。高い技術が要求される場合には日本的経営を押し付け、単純作業で済む場合は現地従業員を搾取。これでもいいのかもしれない。しかし、今一度中国文化を理解しようと努力し、中国に適した経営管理方法を探し出すことは決して無意味ではないと思われる。

参考文献:国民経済雑誌第196巻第2号

Posted by keieigaku at 09:43:44 | PermalinkComments(0)TrackBack(0)

医薬品の乱売と再販売価格維持

2008-03-19

1950年朝鮮戦争勃発以降、日本は特需景気の影響もあり、日本では様々な製品の需要が増大した。医薬品市場も例外ではなく、将来需要増大の期待とともに、生産設備の拡大が行われた。しかし、各製薬企業が量産設備を建設し、大量販売を行ったため、販売競争は激化した。販売競争が激化する中、多くの製薬企業は特売方式を採用することによって競争力を維持しようとしたため、結果的に卸売業者や小売業者で販売される医薬品も特売の対象となり医薬品は乱売されるようになった。

スーパーなどの大規模小売業者が医薬品を客引きのためのおとり商品として販売したため、ほとんどの小売業者が医薬品を廉売するようになり、結果的に医薬品のブランド価値、小売価格は低下した。

乱売が起こった原因は同質製品の過剰供給とそれを販売する業者の性質にある。資金繰りの困難な卸売業者・小売業者は負債水準が高まるほど目先に利益を求めるようになり値引きに走る。それを互いに繰り返すので小売価格は限りなく低下し、価格競争は激化した。そこで製造企業側が価格維持に乗り出したのだが、同質な商品が過剰に市場に出回っていたため、小売業者への横流しが行われ乱売の解決には至らなかった。

そこで医薬品業界は再販売価格維持制度を活用し始める。再販売価格維持とは、製品の製造者が卸・小売業者に対して販売価格を指定することによって値引きを防ぐことである。これは独占禁止法に違反するが、一部商品については国がそれを認め、独占禁止法の適用除外としており、医薬品もその一部に含まれている。
しかし、再販売価格維持が認められても全ての企業がそれを上手く活用できたわけではない。再販売価格維持を行うためには自社製品の差異化、流通網の管理が必要となる。

自社製品の差異化がはかれていない場合、つまり他社が似たような製品を販売している場合、消費者はより安い製品を購入するので、販売価格の指定された製品は当然売れなくなる。

また、自社製品の差異化に成功しても、流通網を系列化して管理しなければ廉価小売業者への横流しが発生し、販売価格は維持されない。その際に必要となるのが卸・小売業者に対する誘因、罰則、監視である。先ほども述べたように卸・小売業者は値引きに走りやすい。そこで、無駄な争いを避け、将来の利益を確保するための結託関係の提供、それを違反しないようにするための罰則と監視が必要である。


参考文献:国民経済雑誌第196巻第2号

Posted by keieigaku at 05:33:42 | Permalink

日本市場は本当に閉鎖的なのか?2

2008-03-16

日本市場は本当に閉鎖的なのか?1


日本で成功する企業と日本で成功できない企業の違いのひとつに日本への関心がある。日本に対して無関心で、日本市場の特殊性に関する知識を持たない企業はことごとく失敗した。さらに、このような企業の中には目先の利益にとらわれて技術移転によって利益を上げる企業も存在した。だが日本を軽視しすぎたあまり、次々と技術を吸収し、力をつける日本企業に気づかず、いつの間にか世界シェアまで奪われてしまったという企業も少なくない。

日本が閉鎖的と言われるもうひとつの理由が欧米企業の社長の任期にある。一般的に企業が海外進出する場合には二通りの方法がある。ひとつは現地企業の買収で、もうひとつが現地で子会社を設立し、一から始める方法である。現地企業を買収した場合にはすでにある程度の経営資源がそろっているので、より早くお金の流れが生まれる。欧米企業の場合、短期間で成果の挙げられない責任者はすぐに解雇される。そのため、欧米企業は成功している現地企業を買収することによって海外に進出する場合がほとんどである。しかし、日本の企業は成功している企業ほど買収するのが難しい。日本人の経営者は社会的な責任を重視するからである。そこで買収されるのが倒産した会社、倒産寸前の会社である。しかし、倒産した企業を建て直し、さらに日本で成功させるのは至難の業であり、結果的に失敗しやすくなる。そしてこれが日本は閉鎖的だと捉えられてしまうのである。

日本市場は一見すると閉鎖的に見える、しかし、実際には多少特徴のある市場ではあるかもしれないが、決して閉鎖的なわけではない。日本市場の特色をきちんと認識した上で参入することが多国籍企業の日本での成功につながる。


参考文献:国民経済雑誌第196巻第1号

Posted by keieigaku at 11:27:01 | Permalink

日本市場は本当に閉鎖的なのか?1

2008-03-16

日本市場は外資系企業に対して閉鎖的であり、多国籍企業にとって日本で成功することは難しいということが一般的に言われている。しかし、本当に日本市場は閉鎖的で、進出が困難なのだろうか?

そもそも、それ自体で完結しているものは閉鎖的にならざるを得ず、それが問題視されること自体が問題である。たとえば、日本でおいしいお米が十分に作れる場合には、わざわざお米を輸入する必要は無く、アジアからお米を輸入しないことを問題視するのはナンセンスである。ただ、特に戦前・戦後の日本は世界に比べてあらゆる面で大幅な遅れをとっており、外国からさまざまなものを吸収する立場にあったことは間違いない。

そこで、日本が本当に閉鎖的であったかどうかについて数値をもとに見ていく。国内総生産に対する受け入れ直接投資の割合はアメリカが22%、イギリスが37%であるのに対して日本は2%と極端に少ない。しかし、この数値をそのまま捉えるのは得策ではない。というのもこの数値にはいくつかの疑問が残るからである。まずこの数値では為替レートの変動が無視されている。また、戦後の日本に進出する企業は外資規制の影響によって日本企業との間に合併企業を設立することによって進出し、その際、進出側企業は技術出資の形をとった。しかし、技術・特許による出資は直接投資額に加算されない。これらを考慮すると、2%という数値を直視するのは避けるべきである。

そうはいっても戦後の日本には参入規制があり多国籍企業にとって参入障壁となっていたのは間違いない。しかし、それが日本で成功するかどうかの決定的な要因ではない。実際に日本で失敗する企業が存在する反面、日本で見事な成功を収めている企業も数多く存在する。特にIBMやユニリーバは戦前の規制も無く比較的自由に参入できる時期に日本に参入しながらも、大きな成果を上げたのは戦後の日本においてである。日本が閉鎖的といわれながらも成功する企業とそうでない企業があるということは、日本が閉鎖的といわれる原因は日本ではなく、進出する企業側にもあるのではないだろうか。



日本市場は本当に閉鎖的なのか?2

Posted by keieigaku at 02:58:54 | Permalink

日本市場の取引・文化の特徴

2008-03-15

日本の産業市場には古くから暗黙知的に伝わる独自の市場文化が存在した。その独特な市場文化は市場に様々な機能をもたらし日本に進出しようとする外資系企業にとって大きな障壁ともなった。ここでは日本市場に存在する取引・文化の特徴を以下の4つの観点から考察する。
・企業内部の関係
・川上産業との関係
・川下産業との関係
・競合他社との関係

企業内部の関係
企業の内部には多くのヒトが存在する。日本企業の場合、人材を育成する際にオンザジョブ、仕事をしながら技能を取得するという方法によって人材を育成していた。そして、それを可能にしたのが集団行動と、そこから生まれる家族のような関係性である。師弟がともに行動することによって、技術を持たない者はより技術を持つ者の技術を習得するだけではなく、職場に適した人間性を形成するようにもなる。また、そこには様々なレベルの技術者が存在し、お互いに教え合っている。同じレベルの技術者が存在する場合には逆に、競争することで切磋琢磨をしている。

川上産業との関係
日本の企業は業務を外部に委託、アウトソーシングすることが多い。もともとは自動車産業をはじめとする日本企業が行っていたが、現代では多くの産業がアウトソーシングという形で社内に取り入れている。業務委託を行うことによって経営には柔軟性が生まれ、同時に分業によって生産性が向上する。

川下産業との関係
日本の産業界では顧客と企業の間に、互いの利益を削り合うのではなく、互いに協力し合う・支え合うという関係が成り立っている。顧客が技術的な要求をすることで、企業の力は高まり、それに対して顧客側は長期にわたる報酬によって応えている。

競合他社との関係
日本の産業では競争が激化しすぎて利益を上げることができなくならないように、すみわけが行われている。共倒れを避けるために、まったく同じ事業を起こさないのである。しかし、このすみわけはあくまで暗黙の了解のもとに行われており、形式化されたものではない。また、競争が鈍化して発展しなくなる状況を防ぐために、競争を促進するシステムも作られている。

参考文献:国民経済雑誌第196巻第1号

Posted by keieigaku at 09:40:07 | Permalink

欧米製薬企業の対日進出

2008-03-13


日本の医薬品は第一次世界大戦が始まるまで外国、特にドイツからの輸入品を主としていた。第一次世界大戦がはじまると、対戦国であったドイツの特許権が消去され、国産の医薬品が増加した。その間も日本企業によって多くの外国産医薬品が輸入されたが、第二次世界大戦以前に日本に進出した企業はバイエル社やロシュ社などの少数であった。多くの欧米製薬企業は第二次世界大戦後に日本に進出し、外資法が成立されてから資本自由化以前に進出した企業は日本企業と合併することで進出する企業が比較的多かった。

単独出資の企業、合併した企業にかかわらず、対日進出した企業は流通・販売を日本企業に任せていた。これは当時の日本製薬企業の全身の多くが商店であり、独特な日本市場における優れた販売力を持っていたためである。一方、日本製薬企業としても自社の品揃えを確保するために欧米製薬企業から製品を仕入れることには技術面においても販売面においても非常にメリットがあった。このようにして日本製薬企業と欧米製薬企業は互いの長所を生かしながら成長していった。

しかし、一見安定しているこの関係も長くは続かなかった。欧米企業の提供する製薬を扱う日本企業が次第に研究開発能力や製造能力を身につけると、日本企業は自社で製薬を開発し始めた。自社の製品と他社の製品の2つの選択肢がある日本企業は当然、自社の製品を優先的に販売するようになり、欧米企業の売上は低下した。

こうなると欧米製薬企業も自社販売に切り替えざるを得なくなった。ただ、これまで日本企業と提携してきた欧米企業も日本企業と同様に日本市場に関する知識を蓄えていた。そこに資本の自由化が追い風となり、欧米製薬企業も自立を果たした。

その後の成果は様々である。ライバルの傘下に下った企業、統合して規模を拡大した企業、日本から世界に進出していこうとする企業など成功した企業もあれば、上手く行かなかった企業もある。これらを決定付けた要因は他社と協力関係にあるうちに、いかに他社の技術をより早く、より多く吸収し、競争関係に備えたかによると考えられる。


参考文献:国民経済雑誌第196巻第1号

Posted by keieigaku at 19:30:57 | Permalink

ユニリーバの対日進出

2008-03-12

ユニリーバの対日進出は1905年に始まる。この時点ではユニリーバの全身企業であるリーバ・ブラザースというイギリスの石鹸会社が日本に石鹸を輸出していた。しかし、安定した地位を築くにはいたらず、参入と撤退を繰り返した。その後ユニリーバは1964年に豊年製油との間に合併事業を設立することで再度、日本市場に参入する。

ユニリーバはまず、マーガリン市場への参入を試みる。当時、日本では食生活の洋風化に伴いマーガリンの需要が高まっているにもかかわらず、マーガリンを販売できる企業は少なかった。ユニリーバは自社の持つ製品技術を優位に生かして日本での地位を確立しようとしたが、マーガリン市場のマーケットシェアを握れたかというとそうではない。日本企業が猛追してきたのである。日本企業はユニリーバがテスト販売する商品を即座に研究し、競合商品を市場に投入することでユニリーバにリードを許さなかった。製品で差別化を図れないユニリーバは、逆に流通部門で日本企業に劣勢を強いられることになる。その後マーガリン事業を再建しようと努力するが、どれも短期的な成果しか上がらず、安定した業績を維持することができなかった。

1970年の時点で日本事業はユニリーバ全体の売上の1%にも満たなかった。しかし、高度経済成長期による日本市場の拡大、P&Gの対日進出、ユニリーバが支配していたアジア地域への日本企業の進出、日本政府の外資政策、これらの要因によってユニリーバは日本市場の重要性を認識するようになる。

そこでユニリーバは日本事業を再構築するために、新たな戦略を展開する。それが粧業品事業への進出と人材育成である。ユニリーバはそれまで食品を中心に活動してきたが、1980年に入ると多数の粧業製品を市場に投入した。さらに経営を安定させるために、新卒者を採用し、人材育成にも力を入れる。当時は今以上に外資系企業の社会的地位が低く、優秀な人材を雇い入れるのは困難であり、ユニリーバも中途採用や派遣社員で業務をまかなっていた。

日本事業を再興させるための戦略はなかなか効果が現れなかった。新卒者を教育するということは数年で出来ることではない。そして、優秀な人材が不足する中で行われる粧業品市場への参入も失敗を繰り返した。ただ、これらの失敗は無駄には終わらなかった。多くの失敗を繰り返す中で定期採用された日本人社員は複雑な日本市場を理解しながら成長していく。

この戦略の結果として生み出された製品の一つが「ラックス・スーパーリッチ」である。この製品は本社からの受け売りではなく、日本人の消費者ニーズを反映し、日本で開発された製品であり、販売開始後も市場調査を怠ることなく改良を繰り返すことで高級感あるブランドイメージを保ち続けている。1997年には粧業品は売上の75%を占めるようになり、かつての中心事業であった食品は25%にまで低下している。

ユニリーバは1994年には黒字転換し、その4年後には累積損失を償却している。この結果は10年以上にわたる戦略によって実現されるようになった。


参考文献:国民経済雑誌第196巻第1号

Posted by keieigaku at 21:15:20 | Permalink

日本IBMの推移2

2008-03-11

日本IBMの推移1

1970年にはWTCの利益が米国IBMの利益を上回るようになり、1972年にはそれまで海外部門として管理されていたWTCを再編成しアメリカ大陸、ヨーロッパ、極東の3つに分けて管理するようになった。

1980年頃には国産メーカーの富士通が猛追し日本IBM は国内でのシェアを減少させることになる。シェアの低下を止めるために稲垣の跡に社長に就任した椎名は日本化成策を推し進めた。この政策はIBM本社に頼らずとも自社だけで活動できる企業能力を身につけようとするものであったが、これは日本特有の経営環境に柔軟に対応するためのものであって、必ずしもIBM本社から独立しようとするためのものではない。

1980年代に入ると子会社内での売上比率のバランスが変化する。これまで高いシェアを誇ってきたヨーロッパでのシェア率が落ち込み、アジアでのシェア率が拡大するのである。アジアでのシェア率が高まるとIBMはアジア太平洋グループの本部を東京に設置する。マスコミはこのことを「IBM本社からの殴りこみ/200人の日本上陸作戦」などと揶揄したが、これには日本市場が戦略的に重要な位置にあったという背景がある。特に日本IBMは国産メーカーの追い上げの中、本社の品質管理に疑問を感じ、独自に統合的品質管理による顧客満足プログラムを開始していたこともあり、IBM本社もその組織能力に注目していた。

日本IBMは1987年には売上高1兆円を超え、現地子会社中、売上高トップを記録し、IBM子会社のトップに躍り出た。こうして日本IBMは本社に認められるようになり、89年には社長の椎名がIBM本社の副社長に抜擢された。
1990年代に入ると日本IBM の立場も一変する。派遣される社員は、将来のトップマネジメント候補者が多くなる。将来、経営者になることが期待されるものにアジア地区を統括させる意味は大きかったのであろう。

Posted by keieigaku at 00:41:03 | PermalinkComments(0)TrackBack(0)

日本IBMの推移1

2008-03-10

第二次世界大戦末期、IBMは世界78カ国に事業所を持っていた、しかし、必ずしも海外部門が機能していたかというと、そうではなく1939年の時点での海外売上高は全体の1/8でしかなかった。1949年に海外部門を統括する別会社、WTCを設立することで1950年代から海外売上高を伸ばすが、主な市場はヨーロッパで、日本はあまり重視されてはいなかった。

日本IBMは1949年に第二次世界大戦中の凍結資産が解除されると事業を再開し、同時に社名を日本ワットソン統計会計機械株式会社から日本IBMへと改名した。初めこそアメリカ人が社長に就任したが1956年に水品が社長に就任して以来、IBMの「その国の人による経営」という方針をもとに全て日本人が社長を務めている。
1950年代は企業における事務合理化とともにIBM製品の需要が高まり、日本IBMの売上も1951年から1959の間に50倍に拡大した。

1960年代に入るとIBMはコンピューター業界で不動の地位を確立する。特に海外事業の伸びは著しく1960年代から1970年代で売上高の占める比率は2倍に跳ね上がっている。しかし、海外の子会社を一元管理しようとするIBMに対して欧州の現地子会社は独立化の意思を持つようになり、両者に食い違いも生じた。そのころ日本IBMも急成長を遂げ、ドイツ、フランスに次ぐ優良子会社への仲間入りを果たした。

当時の日本IBMは稲垣が社長を務め、「われわれは外資であって、日本という土壌を借りてビジネスを行う」というスタンスのもと日本IBMという外資系企業を日本に根付かせようとしていた。そのためには、ただアメリカの経営手法に従うのではなく、日本にあった経営をする必要があり、稲垣は積極的に日本には日本のやり方があるということを主張した。

そのひとつに営業社員報酬制度に関するものがある。IBMでは1967年に営業社員に対してコミッション制度が導入された。それに伴いIBM全社では、営業に「クォータ」と呼ばれるノルマが設定されたが、日本IBMは金銭的な動機で営業部員を動機付けることは日本の風土にはそぐわず、営業部員の管理能力を弱めることにつながると考え、逆にコミッション率を下げるという提案をした。

日本IBMの推移2

Posted by keieigaku at 06:27:59 | PermalinkComments(0)TrackBack(0)

戦後の日本の開国

2008-03-09

敗戦後の日本では連合国占領軍の政府が財閥を解体することで、一部の企業や家族が経済を独占する状況が改められ、民主化に向かった。しかし、当時日本国内で活動できた外国資本の企業は、中立国企業のネスレ、官庁に機械を供給するIBMなどのごく少数の企業のみであった。

しかし、自国の企業のみではなかなか技術開発が進まないため、日本としても多国籍企業の持つ高度な技術や経営ノウハウは魅力的であった。そこで日本は1950年に外資法を作ることで、様々な規制を設けながらも多国籍企業を日本に誘致した。その後、1960年代後半から5段階にわたって規制緩和が行われ、1979年には外資法自体が廃止され、多国籍企業も自由に日本に進出できるようになった。

特に戦後の復興期から高度経済成長期にかけての日本市場には多くの多国籍企業が注目し、多くの企業が新技術や経営システムを武器に対日進出してきた。1930年の時点では売上高基準で世界上位500社に入る企業のうち29社しか日本市場に参入していなかったのに対して、1967年にはその4倍を超える133社もの外国企業が対日進出を行っている。その中でも駐在する連合軍に製品を提供するという政治軍事的要因をきっかけに進出したアメリカ企業がその割合の多くを占めた。

日本に進出してきた企業は独自のシステムを武器に日本での地位を確立しようとした。しかし、日本での地位を確立することは必ずしも容易ではなく、特にそれまで日本になかった新規事業に参入した企業に比べて、すでにある程度発達した市場に進出した企業は予想以上の苦戦を強いられた。

そんな中でもネスレやコカ・コーラ、ユニリーバなどは独自の強みを生かし、日本での地位を確立していった。


参考文献:国民経済雑誌第196巻第1号

Posted by keieigaku at 03:38:08 | PermalinkComments(0)TrackBack(0)

外資系企業に学ぶ

2008-03-07

外国資本の対日進出は幕末にまでさかのぼる。当時は貿易商社、海運企業などの貿易関連企業が日本へ進出していた。それについで、1900年ごろから製造企業が日本に参入するようになる。特に第二次世界大戦後の外国企業の対日進出は著しく、世界の鉱工業最大500社に入る企業で対日投資を行った企業は1930年で29社、1967年で133社、2002年には176社にまで増加した。

しかし、対日進出した企業の全てが日本で事業を軌道に乗せたわけではない。スムーズに地位を獲得した企業もあれば、長い年月をかけて基盤を築いた企業もある。日本から撤退した企業の中にも、投資額を十分に回収した上で戦略的に撤退した企業がある一方で、赤字が続き撤退を余儀なくされた企業もある。企業ごとで結果は実に様々なのである。

特に日本という競争環境は外資系企業にとっては厳しいものであり、日本企業の迅速なキャッチアップ能力によって、当初は強みとして位置づけられていた優位性も時間がたつにつれてその効果を薄めていった。

しかし、その中でも日本で成功した多国籍企業は存在し、リーディング企業としての地位を築いた。そもそも多国籍企業というからには自国以外に進出するのは当然のことで、自国と異なる経営環境で以下に自社の強みを生かせるかということが重要になる。

近年、日本でも多くの企業が国際化している。売上高の8割を日本以外が占めるという企業も少なくない。日本に参入してくる企業と競争するよりも、日本の企業が国外に進出し、日本以外の環境で他社と競争していくという流れがより強くなっている。

そんな中、いかに日本企業が日本以外で活躍していくかが重要になってくる。そのためにも、かつて対日進出した企業の結果の多様性を踏まえ、そこから学んでいくことが大切である。

参考文献:国民経済雑誌第196巻第1号

Posted by keieigaku at 21:38:56 | PermalinkComments(0)TrackBack(0)

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