公共性とはどういった考え方なのでしょう?
私ばかりが優先され公の意識が足りない、という類の言葉を年寄りや政治家なんかが口にするを度々聞きますが。そういった場合の公とは言えば、自分がいる場所を、同じ様な考え方を持った人ばかりがいる均質な場=国として考え、公=国家と見なしている場合が多いと思われます。そこから公益とは国益となり、公の為とは国の為、という図式がすぐに成立します。
ですが、公共とはこんなに狭いものなのでしょうか?公共とはもっと開かれたものであるはずです。世界に存在する一個人が社会の中に位置ずけられた肩書によってではなく、社会的肩書きの無い個人が本来の自分として在る時に、同様の個人と自らの意思で自由に交わることができる空間、それが公共である。筆者は、この見解をアーレントとハーバーマスの批判的読解を中心にして整理していきます。
国家・社会にとって役に立とうが立つまいが、生まれてきた以上、その全ての生そのものを絶対的に肯定する、障害者・老人・子供・無職者などの経済的に役に立たない人や、国家が自らのイメージとして持っている均質性を破る人、を異物として排除しない、そうした世界を構築するにはどのようにすれば良いのでしょう? 様々な立場にある人達の多様な意見がお互いに刺激し合い、大きな声が小さな声を押し潰さないような、そういった公共空間を築く為には。