「暴力」という言葉は、私的には、肉体に直接他者から下される腕力というような印象が強くあります。が、この本ではそうした直接的なものだけでなく、政治的な暴力、アメリカの黒人差別等、を主に扱っております。
オウム真理教や北朝鮮、殺人事件の犯人のような例に見られるように、次から次へと見出される敵は、政治と結託したメディアや、嫌いという先入感情でもって対象への理解を放棄した世間、などによって交渉不可能な絶対的な異分子へと祭り上げられ、それに対する不寛容は増幅されている。そうなると自分が一定の集団の中で異分子=敵として認識されないよう、一旦敵として公認されてしまった相手に対して理解しようとする姿勢は益々なくなっていく、本当に悪循環です。
法によって認められた暴力を独占している国家は、国境の向こう側に対する国民の恐怖という感情に立って暴力の保持を正当化していますが、国の存在が曖昧に相対的になっているいま、国家暴力が立脚している地点が国境の向こう側への恐怖から国民相互への不信感からくる不安へと、より軽い感情にシフトしているようです。
国家や多数を占める者によって独占された力=暴力が、いかにしてそこに住む国民や(政治的)少数派に対して行使されるのか?また暴力に対抗する非暴力・反暴力とはいかなる態度なのでしょう?